このお話は、父の死という現実から逃避していた女の子が、男の子と恋をすることで「一緒に現実と戦う決意ができた」ってのが感動的なわけ。そこに重点を置いて見てあげないと。
私も、十花も母も六花に対してベストな対応はしていないと思う。だってそれが話の前提だし。
「していない」というより「できなかった」、「どうしたいいのかわからなかった」のが正確。それはなぜでしょうね?
当然ながら六花の父の死は、同時に十花にとっても父の死であり、母にとっても夫の死だった。
自分にとって唯一無二の存在が突然いなくなったときでも、自分の子ども、自分の妹のためだけを思ってベストな行動ができるほど人間は強くない。
いちいち場面は指摘しないけど、そこは終盤で表現されている。
六花は、家族のベストではない選択に巻き込まれ、中二病を余儀なくされた。でも勇太と恋をすることで少し強くなれた。
ここでいう「強くなれた」ってのは、父親の死を受け入れたことだけではない。
家族の弱さも受け入れられるようになったってことも含むんだよね。
恋をすることプラス家族との交流で六花が成長するべき、というのは1つの意見だと思うけど、おそらく脚本家はそうは考えていないよね。
現実逃避ではなく現実と戦うための手段としての「恋」(屋根の上で勇太が言ったセリフはもっと評価されるべき。)。
この「恋」のポジティブさを表現するためには、家族との交流がままならなかったという前提が必要だったんだと思う。うーんなんかうまく言えないなあ。
全話見てるわけじゃないのであれだけど、十花もうまくやれなかったことを気にしてるし、そのフォローを勇太にお願いしているし。要するに不器用。
お母さんも食べてくれないだろうと思いつつ弁当を作ってきたりして不器用の極みでしょ。
でも2人とも、六花に対する愛情は確実にあった。六花に伝わんなかっただけ。
ここまで善意解釈してやらんといけないのか?と思うか、それともこの程度は善意解釈ですらないと思うかはもう、素人目にみれば好みの問題でしかない。
「恋」のパワーってすごいねって化石級にありきたりなことを、「中二病」の枠で語ってみせたから、「なるほど京アニらしいなあ」ってなってる(俺の中では)。他に褒めるべきとこあると思うんだけどもう長いな。疲れた。
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